タイで一番古い町といわれます。ドバーラバティ(タイ語でタワーラワディー)というモン族の王国がかつてあり、インドから僧が派遣され仏塔が建立されました。これがタイ最初の仏塔と伝えられています。ナコーンパトムとはパーリー語のNagara Pathama つまり一番はじめの町という意味です。プラパトムチェディは127mで、世界一高い仏教モニュメントです。
ところでナコーンとは何でしょう。タイの地名で、ナコーン〜と付く名前がやたらに多いのに気がつきましたか? ナコーンナヨック、ナコーンパノム、ナコーンサワン、ナコーンラ−チャシーマー、ナコーンシータムマラート、サコンナコーンなどなど、まぎらわしいですね。これらの地名にはみな共通点があります。タイをよく旅行した人なら分かると思いますが、どこも水辺に町を形成しています。実はナコーンとは、ナ−ガなのです。サンスクリット、パーリ−をタイ語の綴字法(かなり高度な教育を受けたタイ人でないとできないけれど)によってタイ語にするとナコーンになります。ナーガ(インドの蛇の神様)は水辺に大きな町を作るのです。そしてカンボジアではアンコールとなります。だからタイ語でアンコールワットはナコーンワット、アンコールトムはナコーントムと呼ばれます。このナ−ガは東南アジアだけでなく日本にも来ています。やはり水辺が好きで、那珂川などが良い例でしょう。
タイ語に詳しい人はここで「あれ?」と思うかもしれません。ナ−ガとはタイ語でナークではなかったかと。これも本当です。普通はナークといいます。とにかくタイではナ−ガが非常に重要視されていて、タイの随所に出現します。たとえば王様の御座船といわれるアナンタナカラートは、7つの頭をもつナ−ガの王が船全体を装飾していますし、普通のロングテールボートもナ−ガの装飾です。もう一つ水と関係の深いバンファイ(巨大な花火)もナ−ガが主要な装飾です。かつてひどい旱魃に苦しめられたクメールの王が雨乞いとして巨大な花火を打ち上げたところ、喜んだイスワン(シヴァ神)が雨を降らしてくれたということです。ナ−ガ(竜)は重要な雨乞いの神様なのです。だからタイの農村ではこういう言葉があります。「ナーク ハイ ナーム」、農作業に必要な水の量を表す言葉で、天候が順調で水が足りている場合は「ナ−ガが1匹いる」と云い、天候不順で旱魃の状態は、最大で7匹のナ−ガで水を飲み干してしまったということで「ナ−ガが7匹いる」と云います。
もう一つのナ−ガ、つまりナ−クには冨田竹次郎さんの『タイ日辞典』によれば「最善者、悪業をなさざる者」という意味もあります。これは、これから僧になろうとする者と同義でしょうが、どうしてナ−ガがこういう意味につかわれるのでしょうか。青木保さんの『タイの僧院にて』を引用してみましょう。あるブッダ伝説によれば、「ブッダの説教に大変感銘を受けた一匹のナーガが、人間に変わって、僧になるために得度したいと申し出た。ある日、彼が部屋で眠っている間に、いつの間にか彼の人間に変わった身体は再び蛇の形に戻ってしまっていた。そうと知らず彼の部屋を訪ねた同僚の僧はびっくり仰天した。ナーガはしぶしぶサンガを去ることに同意したが、これによってブッダは僧の得度を受ける前には必ず彼が真実の人間であることを誓うように定めることにしたのであった。しかしナーガ僧はサンガを去るにあたって、これから僧の儀礼を受ける者、すなわち頭髪を剃り、白衣をまとった者はみな『ナーガ』とよばれるべきことを認めさせたのである。事実、このこの呼称は現在にいたるまで用いられており、その本当の起源には諸説があるが、普通はこの伝説によるものとされている。」ということです。さらに『スッタニパータ』にも関係がありそうな事が出ています。中村元さんの訳『ブッダのことば』によれば、「この世に還り来る縁となる煩悩から生ずるものをいささかももたない修行者は、この世とかの世とをともに捨てる。あたかも蛇が旧い皮を脱皮して捨てるようなものである。」とあるように、「蛇」が関係してきます。現世(世俗の生活)をすて、来世(煩悩を断ち涅槃)に入ることは「蛇」が脱皮するのと同じであると言っています。「蛇」を「ナーガ」とすれば、これはまさにタイ語の「ナーク」のことを表しているのではないでしょうか。
冨田竹次郎さんによれば、バーンコークと称するべきであるというが、同意見です。バーンは水路または水路に形成された村、つまり水辺の村という意味です。コークはマコークと云う小さな果樹からきました。タイ語では村が水に沿っているかいないかによってBaag(水辺)、Baan(水に沿っていない)と区別します。日本語では同じバーンになってしまいますので注意しましょう。水辺のバ−ンには次ぎのような所があります。バ−ンカピ、バ−ンケ−ン、バ−ンラァック、バ−ンパイン、バ−ンラムプ−などが良い例でしょう。特にバ−ンラムプ−はカオサンがあるので、お世話になるバジェットの方も多いでしょう。この辺りの河口の泥地には、呼吸根をだすラムプ−という20mほどの樹が生えていたのです。
バンコクと呼ぶよりもクルンテープと呼んだ方が良いでしょう。皆さんも知っているように正式名称は世界一の長さです。クルンとはモン語の「Krerng」すなわち運河または河という意味からきました。河を支配する者、つまり水を治めた者が王(チャオクルン)となり、クルンと云う言葉じたいが王あるいは首都と同義となったということです。
1861年、どこに行っても自分の国の論理を振りかざし相手を尊重しようとしない人間はいるもので、当時バンコクに居住していた西洋人が「健康を維持するための乗馬場」を求めたことから、ラーマ四世(モンクット王)はタイで初めての近代的道路建設を受け入れ、チャルン・クルン通りを建設しました。チャルンとは繁栄という意味で、都(首都、王国)の繁栄という意味の道になります。もっとも一般の人はタノンマイと呼んでいたようで、これが英語のニューロードになりました。いまではチャルン・クルンが一般的で、英語や日本語のガイドブックにのっているニューロードでは普通のタイ人には分からないと思います。その後タイの近代化も進み1898年〜1902年には「国王の御幸」という名のラーチャ・ダムヌーン通りを建設し、内外にタイの勢威を誇示することになります。カオサン通りからタナオ通りを右折してラーチャ・ダムヌーンとの交差点はコークウワと呼ばれますが、これは19世紀後半インド人がこの辺りで牛を飼っていたことに由来します。ウワとは牛のことです。もう一つ牛にちなんだ有名な地名があります。バンコク中央駅・ホアランポンは、ウアランポン(牛つなぎ場)が訛ったものです。
ところでタイの国花はゴールデンシャワー、タイ語でラーチャプルク(チャイヤプルク)ですが、それぞれ王の樹、勝利の樹という意味です。このゴールデンシャワーと同じぐらい目立っている樹でハーンノックユン・ファランという樹があります。ハーンは尾、ノックユンとは孔雀、ファランは西洋、つまり西洋から来た孔雀の尾という意味になります。特徴的な燃えるような濃い赤い花が枝先にかたまって付き、枝が多く合歓の木のように傘状に横に広げ、葉は50cm〜60cmになり孔雀の尾羽ににています。よく火焔樹と呼ばれていますが、本当の火焔樹の枝は横には広げず縦にのびます。インドネシアに多く、タイでみられるものの多くは正確には鳳凰木(ホウオウボク)と呼ばれるものです。これはタイ語と同じ発想の命名できれいな名前ですが、火焔樹という名も捨てがたいものがあります。植物学者ではないのですからどちらでも良いことなんでしょう。雨期の始めパドン・クルンカセーム運河のほとりの並木はすばらしい眺めです。ぜひ一度足を運んでみてはいかがでしょうか。
バンコクでも特に渋滞のひどい道としてアソック通りがありますが、私はかつてタイに来たばかりの頃、アソックはインドのアショカ王にちなんだ名前だとばかり思っていました。サンスクリットでアは否定語、ソーカは悲しみ、つまり悲しみのないこと、無憂樹です。サラノキ、インド菩提樹とならぶ仏教上の三聖木のひとつです。日本の仏教の常識では、マーヤ夫人がルンピニであまりにも美しいこの樹に触れて懐妊し、右脇腹から釈迦が誕生したという伝説です。もっともタイの仏教では関係ないでしょうが。英語でも無憂樹のことはアソックツリーと呼んでいます。ところが実際のアソック通りには無憂樹でなくマストツリーと呼ばれる樹がはえています。名前のようにまっすぐ上にのびた樹で、帆船のマストとして重用されていたようです。この樹のことをインドではアソックと呼び神の樹として大切にします。タイでもこの樹はアソックと呼ばれています。アソック通りの由来はこの二つの意味から来ているのではないでしょうか。
ピッサヌとはヴィシュヌ神、ロークとは世界という意味です。1355年スコータイのリタイ王が仏像を鋳造しようとしたのですが、どうしたことかなかなか固まらず2年後にもう一度やろうとすると、どこからともなく白衣の人が鋳造作業を助けチナラート仏が完成しました。この白衣の人とはヴィシュヌ神であろうと信じられるようになり、ヴィシュヌ神の世界(ピッサヌローク)という名に改称されたのです。ピッサヌロークは交通の要衝にあたり、北のチエンマイと南のクルンテープの中間に位置し、東のコーンケーンにも西のメソットにも通じています。つまりピッサヌロークのバスターミナルからなら南タイを除いてほぼどこへでも行けるということです。特に鉄道を利用してスコータイに行こうとすればどうしても通らなければならないところです。
ピッサヌロークといえば、スワンニー・スコンターの名作『サーラピーの咲く季節』が思い出されます。原題は『SUAN SAT』といって動物園という意味です。吉岡みね子さんのすばらしい日本語訳が出版されていますのでまだの方はぜひ読んでみて下さい。作者は少女時代をここピッサヌロークで過ごしています。1932年立憲革命によってタイは絶対君主制から現在の立憲君主制に変わりましたが、彼女はまさにその年の生まれでした。『サーラピーの咲く季節』のなかではピブーンソンクラ−ム首相の「文化」政策、日本軍の「平和進駐」などが少女の目を通して語られ、生きとし生ける者、小さき者や弱き者へのあたたかい目とピッサヌロークの自然は印象的です。このエッセイが発表されたのが1976年、この年の10月6日には「血の水曜日」事件がおこっています。タイ現代史とともに歩みながらの1984年の突然の死はあまりに衝撃的で、今さらながらに惜しまれます。
ヴィシュヌ神が手を貸したと信じられているチナラート仏は、ワット・ヤイ(Wat Phra Si Ratana Mahathat)の本尊で、タイで最も美しいとされ、エメラルド仏の次に重要な仏像です。バンコクのワット・ベンチャマボピット(大理石寺院)には、このチナラート仏のレプリカがあります。1992年、このワット・ヤイで病気快復を祈願していたルークトゥンの女王プムプワンがこの街の病院で亡くなってしまいました。あまりに若すぎる死で、ルークトゥンのファンとしてはとてもショッキングなことでした。
ウボンにはワット・パー(森の寺)がたくさんあります。なかでも世界的に有名なのが1992年に亡くなったアチャン・チャー(ルオンポー・チャー、ポーティヤーンテーラー師)です。ウボン生まれで教理学習を修めて後に瞑想修行を志し、日常的な諸活動において心身の自己省察を実践することを説いてノンバポンの森にはいりました。チャー師が創立したワット・ノンバポンはまだ残っていますが、本格的に瞑想をしたい人はWat Paa Nanachat Bung Wai に行くのが良いでしょう。アチャン・チャーに関心のある人は、Paul Breiter の『Venerable Father -A life with Ajahn Chah-』を読んでみて下さい。
メ−とは母、河のことです。サイは良く分かりませんが人の名前でしょうか。『王朝四代記』にも、たしかサイおばさんが出てきますから。たぶんプノンペンのペンおばさんと同じなのでしょう、と考えることにしましょう。タイ北部ではメ−の付く地名がたくさんあります。メ−チャン、メ−サリアン、メ−ソット、メ−ホンソーンなどがそうです。メーナ−ム(河、川)も縮まってメ−になるので、クェ−河で有名なメークローン河やメ−コーン河も、厳密に訳せばクローン河、コーン河になるのでしょう。実際、メ−コーンをコーン河と訳した本もでています。
かつてまだ世が昭和だった頃、メ−サイからチエンセーンに抜ける道沿いにある村にホームステイしたことがあります。カラバオの名曲『メ−サイ』とともに忘れられない思い出です。ちょうど夏が来る前の3月半ば、フォン チャ チョ− マムアン(マンゴシャワー)と呼ぶ雨が降り庭のマンゴの樹を洗います。そして暑熱で空気も揺らぐ4月をなんとか乗り切ればモンスーンの季節です。空が薄暗くなり気持ちの良い風が吹いてくると急に夕立ちの匂いがしてきます。そう思っているともうバケツの水が落ちてきます。僕は家に駆け込みましたが、子供達は大喜びで外に出ていきます。モンスーンがマンゴを落としてくれるからです。ずぶ濡れになりながら、美味しいマンゴをたくさん拾ってきてくれました。マンゴはあおい物も熟れた物もそれぞれ美味しく、季節を感じさせてくれる風物の一つです。葉っぱもマンゴのいい香りがしてなかなか美味しいです。
アは否定語、ユッタヤーは戦争という意味です。つまり「戦争のない」という意味になります。ラーマヤーナの主人公ラーマ王子のすんでいた都のアヨーディヤーから名付けられたといわれます。1351年ラーマーティボディー一世は、義兄バゴアにスパンブリーの統治をまかせ、長子のラーメースエンをロッブリーの太守としました。「戦争のない」という名の都とは裏腹に隣国ビルマとの争いだけでなく、スパンブリーとロップリーの権力抗争がはじまります。結局スパンブリー系が勝利を修めることになりますが、インドシナにおいてアユッタヤーは大国として君臨していきます。文化的にも経済的にもインドシナの中心とも言えるものでした。ところでこのスパンブリー、ロッブリーのように〜ブリという地名がこの辺りにはたくさんあります。ほかにサラブリー、ラッブリー、チョンブリー、ペッブリー、プラチンブリー、チャンタブリー、ノンタブリー、カンチャナブリーなどがあります。これは都市という意味で、インドのジャイプール、ウダイプール、ジョードプールの〜プールと同じです。その他同じ語源ではコンスタンチノープル、イスタンブール、クアラルンプール、シンガポールなどがそうです。
1月24日〜30日には毎年スパンブリーにてドンチェディー記念祭が催されます。1592年、アユッタヤーのナレースワン大王がドンチェディーでビルマの皇太子と騎象の一騎討ちをして勝利した日です。その頃の戦は大将同士の一騎討ちで勝敗を決することが多かったようです。スパンブリーといえば、金権政治家の代表といわれるバンハーン氏が地盤としているところです。かつてバイパスとして計画されたというローカル線が、トンブリーからスパンブリーまで走っています。一方のロッブリーは、「猿に乗っ取られた街」と言われるぐらいに生意気な猿の多いところです。インドのヴァラナシーも猿の多いところですが、ここは本当に「猿に乗っ取られて」います。『ラーマヤーナ(ラーマキエン)』によると、ハヌマンのスーパンマン的な働きに報いるため、ラーマ王子はこの矢が落ちた所を街として与えるとして矢を放ち、その落ちた所がロッブリーだという訳です。そしてその落ちた所にはワット・プラカーンが建っています。ちなみにここの猿はカニクイザルという猿でなかなか人に慣れないそうです。コサムイでココナッツを取ってきてくれる猿はブタオザルといい、結構かしこいようです。
アユッタヤーは2度ビルマに攻められて占領されますが、それぞれナレースワン大王とタークシン王によって撃退します。1976年の軍事政権復活によってタイの学生や知識人たちは「森」に逃れました。日本だったら「地下に潜る」と形容するのですが、彼等は本当に「森」に向かいました。1981年東南アジア文学賞受賞のアッシリ・タマチョート作『クントーン・・・お前は暁に戻るだろう』は、「血の水曜日」によって「森」に向かった青年をひたすら待ち続ける母親の思いを描いた傑作ですが、ここにでてくる「クントーン」とは、国(アユッタヤー)のために自分の命を賭けて、侵略者(ビルマ)と闘った勇者を称えたアユッタヤーの子守唄が元になっています。タイでは詩という形式の表現法法がまだまだ力を持っていて、同じく「森」から帰ってきた才媛チラナン・ピットプリーチャの東南アジア文学賞受賞作はカセットテープになっているそうです。
アユッタヤー王朝の離宮バーンパインで不幸な事件が起きました。1880年、ラーマ五世の異母兄妹でもあるスナンターク−マリーラット王妃(ラ−マ五世最初の王妃。正式に王妃の肩書きを持つ女性は3人であり、実の姉妹でもある。)が、溺れている王子を助けようとして自分も溺れてしまった。当時は臣下が王妃の身体に触れる事はタブーとして禁じられていたため、目の前で王妃が溺れているのを見ながら誰も手を出せなかったと言われます。自分の身を犠牲にしてでも王妃を救おうとは思わなかった、というのではなく、たぶん畏れ多くて身体が動かなかったということでしょう。
バンコックとアユッタヤ−の間を特別編成の蒸気機関車が走る日が年に4回あります。3/26の鉄道記念日、8/12のシリキット王妃誕生日、10/23のチュラーロンコーン大王記念日(命日)、12/5のプミポン国王誕生日です。チケットを入手するのはかなり難しいですが、SL好きの人はチェックしておきましょう。
7世紀にスマトラ島パレンバン付近にあった大乗仏教王国スリヴィジャヤの属国・タンブラリンガの首都として、リゴール(ラゴール)と呼ばれていました。リゴールとはナコーンの訛りであるといわれます。タイのダンスドラマの一つであるラコーンは、ラゴールの訛りであるという説もあります。その後、パーリー・サンスクリットの Nagara Sri Dhammraja (正法王の都)と変わりタイ語でナコーンシータムラートとなります。
コラートと呼びます。東北イサーンの中心地です。このコラートからブリ−ラム、ローイエットにおよぶ荒涼とした原野をクラ−ローンハイ原野と呼びます。昔ビルマから来た勇猛果敢なクラ−族の商人でさえ、このあまりに過酷な地を通るときに泣いてしまったと伝えられることからこの名(クラ−ローンハイ)が付いたそうです。イサーン上空を飛行機で通過すると乾いた赤土が目につきます。もっともクラ−ローンハイ原野だけが乾いているのではなくて、カンボジアからイサーンに至る地がほとんどこんな状況です。もともと表土の薄い熱帯雨林の森が失われた結果、土壌が流失してこのようになってしまったのです。そのきっかけになったのがヴェトナム戦争でした。ヴェトナム戦争はタイにも大きな影響を与えたのです。米軍基地・フレンドシップロード・パタヤー・パッポンなどだけではなく、自然に対しても決定的なものを与えてしまいました。
ナコーンラーチャシーマーではターオ・スラナリーが有名です。タイの歴史に幾度も出てくる女傑のうちの一人です。ラ−マ三世の時代(1827年)、国主・副国主が不在の時、ヴィエンチャンのアヌウォン王がバンコクを落とそうとして途中のナコーンラーチャシーマ−を占領し、住民をヴィエンチャンに連れて行こうとしました。そこで登場したのがナコーンラーチャシーマー副国主のモー夫人(ターオ・スラナリー)です。まるでジャンヌダルクばりの活躍により見事アヌウォン王の軍に抵抗し撃退したのです。タイ側からするとまさに英雄ですが、ヴィエンチャン側から見るとまた違ってきます。現在もそうですが、当時からタイ人は同系のラオ系諸族に対してかなり見下した気持ちを持っていた様です。そのころのラオはルアンプラバーン、ヴィエンチャン、チャンパサックの三王国に分裂していましたが、両隣りの強国タイとヴェトナムの双方に朝貢して微妙な外交の舵を取っていました。アヌウォンは青年時代はタイ国王に仕え(人質として)てビルマ戦にも従軍したことがあります。ヴィエンチャン国王となってからの1825年のラーマ二世の葬儀のさいに、かつてヴィエンチャンから連行された住民や王族の返還をラーマ三世に求めますが拒否されてしまします。ターオ・スラナリーが英雄であるならばアヌウォン王も救国の英雄です。タイからの独立をもとめて反乱を起こし、バンコクをめざしましたが失敗に終わり、1829年バンコクで撲殺されました。なんと残酷なと思うかもしれませんが、これが王族の処刑方法だったのです。神聖なる王族の血は決して流してはいけません。だから絹の袋に入れられて、白檀の棒で殴り殺されたのです。
クメール寺院で有名なピマーイのムーン河ほとりにあるサイ・ガーム(サイはバニヤン樹・ガジュマルのこと、ガームは美しい、つまり美容樹)は、タイ最大で一本の樹が大きな池の中の島に100m四方ほどに広がっています。トン・サイ(バニヤン樹・ガジュマル)は神や精霊が宿るとされ「平安と憩い」の象徴でもあります。ちなみにこの樹の乳液はとりもちにもなります。